3.11について

今さらですが当時どういうことを考えていたかを何かに留めておこうと思いました。
何年か経過したあとに当時の記憶を呼び起こすための一助になればと思います。

当時、恵比寿のとあるWeb会社でディレクターとして勤務しておりました。
今思えば大変良い経験をしていると思いますが、当時はまさに忙殺という状態で自分がどの位置にいるのかを毎日確認しながら、色々な人の助けによって何とか踏ん張っているという感じでした。そんなときにあの震災が起きたのです。

あの時間帯は3階の会議室でお客様と上司、私の3人で打ち合わせをしているときでした。
いきなり激しい揺れに襲われ、3人とも揃って「とうとう関東大震災が来たか」と冗談を言いつつも内心はヒヤヒヤしていました。
地震後もそのまま打ち合わせを続けていましたが、打ち合わせ途中で本日の業務終了の話が別の上司からお達しが出ました。
まずは打ち合わせはキチンと終了させたところで、帰宅可能者から帰宅して下さい、と話が再度出たので、本当は議事録を作成しなければならないのですが、要点だけをまとめて帰宅することにしました。

当時は川崎に住んでいており、恵比寿から自宅まで歩いて帰宅したことがあるので、だいたい徒歩3時間くらいで帰れるだろう、という目測はありました。そんなわけでイソイソを身支度を済ませて帰宅することにしたのですが、あとで会社の後輩には「あのときの先輩の決断の早さはハンパない」みたいなことを言われたような気がします。まあ、この辺は記憶は曖昧ですが。。。

会社に残った人たちは公共交通機関が再開するまで待っていたそうです。そんなもの待っていたらまさに日が暮れると思うのですが、実際本当にそうなってしまい、会社に残って翌日を迎えた人もいたようです。会社に残っていた女の子たちの真っ青な顔が印象的でした。そんなすぐに死ぬワケじゃないのに。。。

会社を出たらまずはコンビニで水とカロリーメイトなどを確保します。
東南アジアやアフリカをバックパックしている身としては、水と食料の確保は絶対だとすぐに感じたので。コンビニ弁当やカップ麺でもいいのですが、コンビニ弁当は賞味期限があるし、カップ麺はお湯がないと食べれないので、すぐにクチにできるものが最優先となるのです。
ここら辺を分かっていない人たちはコンビニ弁当やカップ麺を大量に買っていました。まあ、でもそうだろねー、気持ちは分かります。。。

あとはそのまま駒沢通りに出てしまえば、そのまま渋谷区から世田谷区を経由して川崎に出ることが出来ます。
一瞬メトロを使って帰宅することも考えましたが、そのまま歩くことにしました。なぜなら、きっとすし詰になることが容易に想像できたからです。まあ、自分が帰宅している途中で案の定メトロも営業中止になったようですが。。。

駒沢通りにはまさに人が溢れかえり、すごい絵になっています。
みんなそれでもまあ冷静になって前に足早に進んで行きます。
歩いている最中に先に帰社した方と合流したので、そのまま二子玉川まで話しながら進んで行きました。
これは精神衛生かなりプラスに寄与したと思います。ちょっとしたピクニックの雰囲気になれました。

二子玉川で別れた後は、二子橋を渡って世田谷区から川崎市に入ります。
二子橋は人で溢れ帰っており、車はほとんど進める状態ではありませんでしたし、どこで用意したのか分かりませんがママチャリたちが車道に出てどんどん徒歩帰宅者を抜いて行きます。
信号待ちになると人で溢れ返り、車道に出ないと人間に圧殺される感じです。

ここまで3時間くらい歩き詰めで疲れて腹も減ったので、まずはコンビニに入ってお湯が出ることを確認してからカップ麺とおにぎりにお酒を頂きました。寒い身体にはやっぱりアルコールが一番です。コンビニの外でみんながヒイヒイ言いながら家路を急いでいる中、自分だけ気持ち良くお酒を飲んでいるのはなんだか滑稽でした。

食事で一服ついたすぐに出発します。この時点でおそらく18時過ぎですからもう真っ暗な状態です。
Twitterで情報収集しつつも、関東の生の状態を知りたかったのでSkypeで北海道の友人に連絡をしているみると、これが繋がる訳なんですよ。いやー、これは本当にありがたいと思って、根掘り葉掘り聞きます。今思えば誤情報ですが、横浜で暴動が起きたとか、横浜に津波が来る可能性ある、とかを聞きました。
はてさて、日本もとうとう終わりかと思ったりもしましたが、まあ、とりあえず自分の周りは大丈夫そうだな、という感覚は掴めたので一安心です。

19時過ぎに川崎のシェアハウスに戻ると案の定、電子ロックの共用の玄関ドアは開放されており、ガスも電気も止まっていました。唯一水だけは確保できているようでした。次にTwitterで得た情報をそのままにまずはバスタブにお水を張ります。次に家にある食料を改めて確認します。カセットコンロも確認します。水に食料に火もある。これなら数日は大丈夫そうだな、と一安心。

あとは、iPhoneTwitterで情報収集をたまにしながらも真っ暗闇でやることもないので、MacBookAirの灯りを頼りにギターを弾きながら、ダラダラしていました。
22時すぎに電気が回復したので、TVでやっと全体の状況を掴むことが出来ました。あまりの地獄絵図に言葉を失うばかりです。。。

24時すぎに家主が横浜から徒歩で帰ってきました。6時間も掛かったようです。
26時すぎにやっと北海道の実家と電話連絡がついてお互いの無事を確認できました。

そこまで確認できてやっと布団に入るのですが、基本的にいつでも逃げれるように普段着のまま、スニーカーもベッドの近くにおいて不安な中やっと就寝です。
1週間ぐらいはこんな感じで過ごしていました。

次に待っていたのは、買いだめによる物不足でした。
モノがなくて苦労しました。特にお米とトイレットペーパーは深刻で、1ヶ月ぐらいはパン食に切り替えてました。トイレットペーパーが切れた時期は箱ティッシュが潤沢にあったので助かりました。ほんとあの買いだめって今でも理解できないんだよねー。買いだめした人は本当にあれで助かったんだろうか?

あとは風評被害。野菜がどうだの、あーだの、って面倒だった。自分はそういうの関係なしに安くなっていた茨城県産の野菜を食べてました。
子供を持っている親御さんのTwitterの内容が、震災後に風評で頭がおかしくなってしまってリムーブするときは悲しかったなー。

以上が震災当日とその後しばらくの話でした。
他に思い出すことがあったらまた書きたいと思います。

それでは。